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年度回眸
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一季度赴日外国游客消费额达17500亿日元
年度回眸 (发表日期:2024-08-15 17:46:33 阅读人次:70 回复数:0)
新美の巨人たち あなたの町の名建築(5)「学士会館」×内田有紀字幕放送
テレ東
2024年12月21日(土) 22時00分~22時30分
千代田区神田錦町3丁目28番地に建つ学士会館は、かつて国家の中枢を担うエリートたちが「我が家」と呼んだ場所です。誕生からほぼ一世紀のレトロなビルの美に迫ります。
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番組内容
昭和 3(1928)年竣工の「学士会館」は、映画やテレビドラマのロケ地にもなっており、一度は目にしたことがあるかもしれません。設計は、「川奈ホテル」(静岡県)、「帝国ホテル 東京本館」(千代田区)・「上高地帝国ホテル」(長野県)などを手がけた建築家・高橋貞太郎。
学士たちの社交場となった細部にまで凝らされた建築美に迫ります。残念ながら学士会館は、老朽化に伴う整備と再開発のため、今年で一旦見納めです。そこで今回、学士会館の中でも最も壮麗な部屋(201 号室)でヴァイオリニスト・廣津留すみれさんによる一夜限りのコンサートも…乞うご期待!
以下、朝日新聞の記事を引用。
学士会館、再開発で大型ビル計画 年内営業終了、旧館は保存へ
東京国の有形文化財に登録されている学士会館(東京都千代田区)が、再開発にあわせ年内いっぱいで営業を終了する。
同会館は1928年開業。関東大震災後に建てられた「震災復興建築」で、旧館は日本橋高島屋や帝国ホテル新本館を手がけた高橋貞太郎によって設計された。旧七帝大の卒業生の交流の場としてつくられたが、現在ではレストラン、結婚式場などとして一般利用されている。
学士会や事業者によると、築90年を過ぎて、耐震性を含め老朽化が進んでいるため、全面改修することに。白山通りの拡張計画もあり、学士会単独での事業が難しいため、隣地所有者と共同で再開発に乗り出すことになった。
2025年4月ごろから新館の解体工事を始める予定だが、旧館はそのままの姿で移動させる曳家(ひきや)工事で保存する計画だ。また、会館に隣接する神田錦町3丁目ビルが解体され、共同事業の大型ビルが29年夏ごろに完成予定という。
23日にあった事業説明会では、「再開発でどれぐらいの高さのビルが建つのか」といった質問が相次いだ。事業者側は「まだ決まっていない」と明らかにしなかった。
学士会館は隠れたクラシックホテルですね
4いいね!
2023/08/31 - 2023/09/01632位(同エリア844件中)
#レトロ建築
#学士会館ホテル
0 59
べるじゃらんさん
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歴史のあるホテルや旅館を巡るのが最近の自分的趣向になっています。
日本クラッシックホテルの会に所属するホテルもそうですが、それ以外でも古いホテルや旅館は独特の趣があるので好みです。
高級なホテルがどんどん建てられていますが、最新のホテルではなく、長年積み重ねられた歴史の重みの箔漬けが施されたホテルや旅館に惹かれます。
今回訪問した学士会館は1928年に建てられたものです。
学士会は旧帝大出身者のための組織なのですが、現在ではホテルとかレストラン、会議室などは一般の人にも開放されています。
横浜のホテルニューグランドが1927年の開業ですから、歴史だけなら日本クラッシックホテルの会の資格は揃っています。元々が同窓会的な建物でホテルではなかったということなので、実際には参加できないのでしょうね。
学士会館のHPを見ると、8月31日にて館内のレストラン、ラタンが閉店するとのこと。そこで急いで宿泊手配&ラタンの予約を入れました。
本当は夕食をラタンで摂りたかったのですが、予約いっぱいとのこと。なんとかランチ(それも時間制限付き)で予約を入れることが出来ました。
エリア 神田・神保町(東京)
同行者 カップル・夫婦(シニア) 交通手段 私鉄 旅行の手配内容 個別手配
地下鉄の神保町駅A9出口を出ると、信号を渡った先に野球のボールを握った手の像が現れます。
この場所で初めて野球の試合が行われたということです。
地図を見る
地下鉄の神保町駅A9出口を出ると、信号を渡った先に野球のボールを握った手の像が現れます。
この場所で初めて野球の試合が行われたということです。
神保町でランチするなら、学士会館でクラークカレーを!美しい建築の魅力や歴史も紹介
この記事を書いた人
田中祥子
新陳代謝の早い東京の街にあって、そこだけ時間の流れがゆっくりと感じる建物があります。神保町駅からほど近い、神田錦町の「学士会館」。黄土色のスクラッチタイルを全面にまとった建物は、重厚かつ端正な洋館建築。「学士会館」の名称と、中折れ帽に背広の紳士が出入りする光景に尻込みするかもしれないけれど、大丈夫。宴会場やホテル、そしてレストランは一般客も使うことができるのです。
アーチ型の入り口の横に、平成15年(2003年)に復元された大灯籠がある
学士会館とは?
そもそも「学士会館」とはなんなのか。旧帝国大学(現在の国立7大学-北海道大・東北大・東京大・名古屋大・京都大・大阪大・九州大)出身者の親睦と知識交流を目的とした同窓会「学士会」のための建物。日本も戦前期までは大学卒業者が少なかったことから、大正6年には「学士様なら娘をやろか」(奥野他見男著)という小説が流行していたのだとか。(のちに映画化までされています)現代と比べて学士の威厳がかなり高かったのですね。かつては会員のための施設でしたが、現在は一部を除き、一般利用が可能となっています。
(左)談話室、(右)赤絨毯の廊下
学士会館は関東大震災後の昭和3年(1928年)に震災復興建築として建設。当時としては珍しい4階建て鉄骨鉄筋コンクリート造は、日本の耐震工学を確立した佐野利器(さの・としかた)が構造設計、弟子の高橋貞太郎(たかはし・ていたろう)がデザインを手掛けています。高橋貞太郎の設計した建物は高島屋東京店や前田公爵邸(元東京都近代文学博物館)など今もいくつか残っています。完成の9年後の昭和12年(1937年)には、丸の内ビルヂング(現存せず)など数々のオフィスビルを設計した藤村朗の設計により、建物後方に新館を増築。旧館のデザインを踏襲しながらも、新館がどこか軽やかな印象なのは、当時の日本の建築文化がたった9年ながら急速に進歩していたことがうかがえます。学士会館は平成15年(2003年)には国の登録有形文化財に指定されています。
(左)玄関ホール天井飾り、(右)新館階段踊り場のステンドグラス
昭和11年(1936年)の2・26事件では東京警備隊の司令部が置かれ、戦時中は屋上に高射機関銃陣地を設置。金属回収令では玄関の灯篭は供出されましたが、創業から使っていた金のカトラリーはなんとか供出をまぬがれたのだとか。終戦後はGHQに接収され、高級将校の宿舎や倶楽部に。接収されていた間も、もともとの従業員が働き続け、クリスマスには将校らが感謝のダンスパーティーを開いて従業員をねぎらったというエピソードもあります。長い歴史を耐え抜いた建物は、東日本大震災でもほぼ無傷でした。
メインエントランス扉の押・引のレトロな書体
建物の見どころ
階ごとに違う形の窓が規則正しく並んでいるのがこの建物のチャーミングなところ。最上階の小さな半円形の窓台は、さながらシンプルな服にとめたブローチのように建物に可憐な華を添えています。知を表すオリーブの木の紋章があしらわれたアーチ型の入り口から階段を上がり、真鍮製のドアノブに手を掛ければ、そこからは昭和初期のゆったりした時の流れに。ドアノブ上の「押・引」のクラシカルな書体はお見逃しなきよう!レリーフが施された白い天井、凝ったデザインの照明、優雅な階段の手摺、敷き詰められた赤絨毯。格調高い雰囲気はさすがです。
201号室の奥にはオーケストラ用バルコニーが設けられている
1階は和洋中のレストランとカフェ、2・3階は結婚式や会議などにも使える大小の宴会場、4階にはホテルの客室があります。宴会場やホテル、そしてレストランは学士会の会員でない一般客でも利用可能。1階には「談話室」なる一角があり、こちらも一般客にオープンされています。あくまでも「談話」ですから、低い声のトーンで落ち着いてゆっくりと話し合っているのが似合うのでしょうね。2階の宴会場は利用者しか入れません。201号室は創業当初のインテリアがほぼそのまま残る優雅な空間。某ドラマの有名な土下座シーンはここで撮影されたのだとか。どこを切り取っても絵になる建物内では、ファッション雑誌などの撮影がしばしば行われています。4階の会員倶楽部室や5階の読書室は会員以外は使用できません。
THE SEVEN’S HOUSEのクラークカレー(1,280円 税込)
クラーク博士ご推奨のランチを
旧館入り口横のカフェ「THE SEVEN’S HOUSE」のランチではクラークカレー(1,280円 税込)がおすすめ。これは北海道大学内のレストランで提供しているクラークカレーを学士会館風にアレンジしたもの。北海道大学に赴任したクラーク博士が帰国の際に「Boys be ambitious(少年よ、大志を抱け)」と言ったことは有名ですが、そのクラーク博士が栄養失調気味の生徒に栄養バランスの良い食事を推奨していたのはあまり知られていないエピソード。米飯に偏っているのが良くないと思われ、毎食をパンの洋食とするよう推奨した一方で、寮則では「生徒ハ米飯ヲ食ベルベカラズ。但シ、ライスカレーハコノ限リニアラズ」とカレーのときだけは米飯を許されていたのだとか。現在のクラークカレーはじゃがいもやズッキーニなど数種類の野菜と牛肉が添えられた豪華なものなので、当時のカレーの様子とはかなり違うと推測されるけれど、「現代にクラーク博士がいたらこのようなカレーを考案したのでは」と北海道大学のレストランでは説明しています。
「THE SEVEN’S HOUSE」のクラシックな空間で、銅像の渋ダンディなクラーク博士と会食する妄想をしながら、贅沢なカレーを堪能して取材を終えたのでした。おいしい建築、ごちそうさま。
◆学士会館
東京都千代田区神田錦町3-28
https://www.gakushikaikan.co.jp/
◆THE SEVEN’S HOUSE
9:30~22:00(L.O.21:00)
https://www.gakushikaikan.co.jp/restaurant/sevenshouse/
国指定登録文化財(建造物)
学士会館
平成17年(2005)2月9日指定
東京大学発祥の地
当学士会館の現在の所在地は我が国の大学発祥の地である。
すなわち、明治10年(1877)4月12日に神田錦町3丁目に在った東京開成学校と神田和泉町から本郷元富士町に移転していた東京医学校が合併し、東京大学が創立された。
創立当初は法学部・理学部・文学部・医学部の四学部を以て編成され、法学部・理学部・文学部の校舎は神田錦町3丁目の当地に設けられた。
明治18年(1885)法学部には文学部中の政治学及び理財学科が移され法政学科が置かれた。このようにして東京大学は徐々に充実され明治18年(1885)までに本郷への移転を完了した。
従って、この地が我が国の大学発祥地すなわち東京大学発祥の地ということになる。
明治19年(1886)3月東京大学は帝国大学と改称され、その当時、それまで独立していた工部大学校と工芸学部が合併され工科大学となり、その後東京農林学校が農科大学として加えられ、法・医・工・文・理・農の六分科大学と大学院よりなる総合大学が生まれ帝国大学と名付けられた。
更に、明治30年(1897)には京都帝国大学の設立に伴い、東京帝国大学と改称された。
爾後明治40年(1907)に東北帝国大学、明治44年(1911)に九州帝国大学、大正7年(1918)に北海道帝国大学、昭和6年(1931)に大阪帝国大学、昭和14年(1939)に名古屋帝国大学が設立された他、戦後なくなったが大正13年(1924)に京城帝国大学、昭和3年(1928)に台北帝国大学がそれぞれ設立された。
昭和22年(1947)に至って、上の七帝国大学はそれぞれ東京大学、京都大学、東北大学、九州大学、北海道大学、大阪大学、名古屋大学と呼称が変更された。
明治19年(1886)7月創立の学士会は以上の9大学の卒業生等を以て組織され、その事業の一つとして、当学士会館を建設し、その経営に当っている。
平成3年(1991)11月 学士会
まちの中の建築スケッチ
第85回
学士会館
——存続を図る震災復興建築——
学士会館
神保町の学士会館の再開発が公表され、この12月で一時休業することになっている。再開発計画については、詳細は明らかでないが、千代田区の環境まちづくり委員会などで議論されていることが、ネットでも見ることができる。区議の一人からは、学士会の専門家に計画のデザイン等にかかわってもらいたいとの要請もされている。
学士会館は、関東大震災直後の1928年に建てられたのが旧館である。白山通りを拡幅することのために曳家により存続させるが、1937年の増築部分の新館は解体されるという。再開発による日照権を問題とする、北側のタワーマンションの東京パークタワーは、白山通りの歩道部分がすでに広くなっている。再開発は東隣にあるSC神田錦町三丁目ビルの敷地も含めての計画ということで、1979年竣工で、まだ50年も経っていない、11階建て賃貸オフィスビルは、すでに解体が始まっている。学士会館の今の姿が見られるのは、あと数か月もないということで、スケッチに出かけた。同時期に建てられた神保町ビル別館は、やはり、再開発により、スケッチの直後に解体されてしまった。
学士会は国立7大学の卒業生の親睦の会であり、これまでに随分と利用させてもらって来た。若いころは友人の結婚式を始め、最近でもシンポジウムや忘年会などで、毎年1回以上なので、おそらくは100回を超えているかもしれない。1973年に都営地下鉄の三田線が開通して、神保町駅の出口に近く、便利な立地である。東京大学発祥の地であり、新島襄の生誕地でもある。立派な記念碑が立っている。さらには、地下鉄出口前に、大きな野球のボールを握った手の彫刻が、「日本野球発祥の地」であることを現わしている。
その地下鉄駅の最寄りの出口を出て向かうときは、フロントのある新館側のエントランスから入ることが多く、急ぎ建物に入ることが多く、なかなか全貌を見るなどということもなかった。旧館の正面玄関は、立派なアーチ状になっていたことも気づかなかった。1階とは言え道路面からは階段を上ることになるので、旧館の外壁に沿って、外部エスカレータがつけられている。老人の利用ということもあるのだろうが、非常にゆっくり動くので、地下鉄のエスカレータから上がって来た勢いで、いつも前にのめりそうになる。階段の側には、車寄せがあって大庇もあるが、テント構造で、いずれも、いささか取って付けた感がある。機能は付け加えられているのかも知れないが、全体の建築としては、もう少し何とかならないかと思う部分である。
旧館だけだと、四角の平面で、1階の石貼りと2階から4階のスクラッチタイル貼りという立面の変化はあるものの、やや単調な箱型ということになるので、後退した新館と組み合わされた今の姿は、悪くないと思う。果たして、旧館のみを曳家して、超高層のビルとうまく組み合わせた都市空間を形成してくれるのだろうかと思う。
再開発対象の敷地の容積率は、700%、600%のオーダーであり、床面積を多くできるなら、事業者としては、高さ100m超のビルを建てたくなるのであろう。容積率による規制が始まってから、都市では特に、容積率を増やすということで都市の活性化を図って来たということが、これからも続くのだろうか?容積率一杯の建物を建てることが社会にとって良いことなのか、考える時代になったと思う。改めて、スケッチをして眺めると、都市景観としてもクラブ建築としての風格がある。4階は宿泊部分で、窓にバルコニーがついている。スケッチでは街路樹と重なって少し見づらいが、旧館の玄関のアーチも構造体ではないが、堂々たる外装になっている。建築史家の鈴木博之(1945-2014)の学士会での講演(2008年5月)が学士会報に残されており、結びで「100年、200年という長い時間の中で継承されていくことを期待している」と言っている。ヨーロッパの様々のクラブ建築を思い描いての言葉だったのかと思う。
学士会館
・・・・・・昭和3年竣工、高橋貞太郎設計の豪華な倶楽部建築
今月初旬から始めさせて頂いた、 建築家・高橋貞太郎(1892~1970)の作品探訪もひとまず今回で最終回。そういう事で今回取り上げるのは、千代田区の神田錦町にある学士会館という建物である。
竣工は昭和3年だが、それより3年前におこなわれた懸賞設計競技(コンペ)で、高橋貞太郎の案が入選。それに基づき建設されたのが、この学士会館だったそうである。ちなみにこの学士会館、高橋の出世作とも言える作品だ。そのような事を頭に入れ、昨日この作品を訪ねた筆者だったのである。
近代建築好きで、その中でも大正から昭和初期に建てられた大規模なコンクリート建築好きで、都内のそれらの作品へ度々訪れている筆者であるが、学士会館だけは何故かノーマーク。
先ほど過去に撮影した写真をチェックしてみたが、ほんの数枚の写真があったのみだった。自分でその理由を考えてみたが、ちょっとシンプル過ぎる外観や、戦前からの国立大学卒業者を対象とした学士会館という倶楽部の性格上、撮影するのにも腰が引けていたのかも知れない。そういう事でこの日はたっぷりと時間を割いて、学士会館を見学してきた訳である。
個人的には地味な印象が強かった高橋貞太郎設計の学士会館、外観に関しては中世ロマネスク建築のデザインをベースにし、昭和初期のモダンさを加味させたような出来栄え。しかし宿泊スペースとして使われているという4階のアーチ窓や、下から上に向かって微妙に小さくなっていく窓のサイズなどに、設計者の高橋の狙いが感じられる。
また冒頭の写真では一ツ橋方面から撮影したものをご覧頂いたが、その反対側つまり神保町方面からこの建物を見ると、その表情は一転とてもシャープな印象を受けるデザインに仕上がっている。そういう二つの表情を持つ学士会館であるが、その両者が何の違和感もなく自然な感じに纏まっているというのは、高橋貞太郎の技量があったからこそ成し得たものなのだろう。
そして今回はじめて学士会館の内部も見学してみた。全てのフロアを見学する事は出来なかったが、1階の正面玄関やホテル施設のフロントなどは、重厚さと豪華さを兼ね備えており圧巻そのもの。またそのような重厚な調度品で飾られた建物内であるが、談話室などアットホームな雰囲気漂う気軽な施設も設けられているというのも意外な感じであった。
あと昭和初期の竣工という事もあってか、ステンドグラスを始めとした一部調度品は、この時代ならではのアールデコ調のデザインも見受けられた。ちょっと無個性な感じのする学士会館であるが、この時代のモダニズム文化の洗礼を受けた作品という事になる訳だ。さりげなく新風と古典のデザインを消化させているのも、高橋貞太郎という建築家の懐の深さを感じてしまった筆者である。
機会があれば上階のホテルに泊まり、たっぷりとこの建物を堪能してみたいと思った今回の訪問であった。今更ながら東京の名建築を知った筆者だったのである・・・・・・。
東京 千代田区 学士会館が老朽化による建て替えで閉館
12月29日 19時08分
昭和3年に東京・千代田区に建設され、旧帝国大学の卒業生の交流施設として親しまれてきた「学士会館」が、老朽化による建て替えのため29日閉館し、関係者らが別れを惜しみました。
「学士会館」は昭和3年に千代田区に建設された東京大学や京都大学といった旧帝国大学の同窓会組織「学士会」の施設で、宴会場やレストランなどとして会員以外の多くの人にも親しまれ国の有形文化財にも登録されています。
建物の老朽化による建て替えのため、29日で閉館となり、閉館時間の午後3時には玄関前に500人ほどの関係者などが集まり、セレモニーが行われました。
この中で樺山紘一理事長は「この建物が多くの人に愛されてうれしい。また戻ってくるので、今と変わらず親しんでいただきたい」とあいさつすると、多くの人から拍手が送られ96年の歴史に幕を閉じました。
学士会館の旧館と呼ばれる建物の一部は、そのままの姿で場所を移して保存される予定で、新たな施設は2030年内の完成を目指すということです。
東京大学の卒業生の65歳の男性は「40年前からこの施設を利用していた。親と食事をしたり、1人でお酒を飲んだりと思い出がたくさん詰まっていて閉館はさみしいが、新しい施設にもこの建物の良さを残してほしい」と話していました。
学士会館は閉館中(一時休館)のお知らせ
学士会館は老朽化による再開発のため閉館(一時休館)いたしました。
再開は、2030年頃を予定しております。
数々の映画やドラマの舞台「学士会館」が休館 5年かけて建て替えへ
有料記事
中村英一郎2024年12月29日 18時30分
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写真・図版
記念撮影をする学士会館の従業員ら=2024年12月29日午後3時15分、東京都千代田区神田錦町3丁目、中村英一郎撮影
写真・図版写真・図版写真・図版写真・図版
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旧七帝大の卒業生の交流の場としてつくられた東京都千代田区の学士会館が29日、建て替え工事のために休館した。この日にあった「クロージングセレモニー」には約500人が集まり、多くの人に親しまれた名建築との別れを惜しんだ。
会館は1928年開業。関東大震災後に建てられた「震災復興建築」で、国の有形文化財に登録されている。天井にシャンデリアが設置され、厳かな空気が漂う館内は数々の映画やドラマの撮影場所にもなったほか、レストランや結婚式場などとして市民にも利用されてきた。
しかし、建物の老朽化が進み、耐震性にも懸念があることから、全面改修を決定。2025年春から夏ごろに解体工事に着手し、5年ほどかけて建て替えるという。
会館を管理してきた学士会によると、隣接する「SC神田錦町三丁目ビル」も解体。同ビル所有者との共同事業で、約6千平方メートルの敷地に高さ100メートル弱の大型ビルを建設する。宴会場や商業施設、オフィスなどが入り、これまであった宿泊施設は廃止する予定となっている。
ただし、文化財としてとくに評価の高い旧館は、そのままの姿で移動させる曳家(ひきや)工事によって、7メートルほど東で保存するという。
半沢直樹に大和田常務が土下座した…数々のドラマが撮影された学士会館、老朽化が進み工事でしばらくお休み
2024年12月17日 12時00分
有料会員限定記事
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関東大震災後の復興建築として造られ、レトロモダンなデザインで親しまれてきた「学士会館」(千代田区神田錦町)が29日を最後に休館する。老朽化が進んだため、新館を解体し、歴史的に価値が高い旧館を保存して免震工事を行う。休館は約5年の予定。現在の会館との別れを惜しみ、多くの人が訪れている。
4階建ての旧館(右)に5階建ての新館が寄り添うように立つ=千代田区で
◆戦前の格調高い意匠
神保町駅のA9出口を出ると、タイルで覆われた重厚な建物が現れる。4階建ての旧館は1928年、旧帝国大学(現在の国立7大学)の卒業生でつくる学士会会員の交流の場として建てられた。設計したのは、帝国ホテルなど日本の近代建築を支えた高橋貞太郎(1892~1970年)。赤じゅうたんや窓のステンドグラス、柱や天井には装飾が施され、戦前の格調高い意匠が目を引く。
㊧旧館正面玄関、㊨談話室=千代田区の学士会館で
館内には宴会場やレストラン、談話室、客室などがあり、一部を除き会員以外も利用可能。結婚式場ではこれまでに7万組のカップルが新たな門出を祝った。
建設当時の雰囲気が残る宴会場の201号室は「半沢直樹」(TBS系)などのテレビドラマ、映画、CMのロケ地としても有名だ。屋上やレストランは、神保町が舞台の人気ラジオドラマ「NISSAN あ、安部礼司」(TOKYO FM系)にたびたび登場。劇中の人物が胸の内を語るシーンの舞台となった。
ドラマや映画のロケ地としても知られる201号室。「半沢直樹」では半沢に大和田常務が土下座した=千代田区の学士会館で
◆創作意欲をかき立てた談話室
脚本家の北阪昌人さんにとって、会館の談話室は創作意欲をかき立てる大切な場所だったという。「談話室から見る白山通りに季節の移ろいや人の営みを感じ、重厚な建物と赤じゅうたんに触れ、自分の心を...
次の100年へ 生まれ変わる昭和の名建築「学士会館」
探訪
2025/1/6 09:10
松井 英幸の写真
松井 英幸
日が暮れた東京・神保町。重厚な外壁に並んだ窓ガラスから温かな光が歩道へともれている。半月円のアーチをくぐって黄金色の扉を押すと、赤い絨毯(じゅうたん)にレトロな照明、美しいステンドグラスやらせん階段に迎えられた。
昭和3年、旧帝国大学の卒業生でつくる学士会会員の交流の場として東京大学発祥の地に建てられた学士会館。12年に完成した新館とともに近年は結婚式場やホテルとして親しまれてきたが、老朽化による免震工事や再開発のため昨年12月29日に休館となった。
学士会館は、関東大震災後に建てられた震災復興建築。旧館は、昭和初期に流行したスクラッチタイルの外壁で覆われながらも、震災の教訓から当時まだ珍しかった耐震、耐火の鉄骨鉄筋コンクリート造りとなっている。
竣工(しゅんこう)から約1世紀。昭和から令和へと激動の時代を駆け抜けるなかで歴史の舞台となってきた。昭和11年の二・二六事件では第14師団東京警備隊司令部が置かれ、先の大戦時には屋上に高射機関銃陣地が設けられた。終戦後は連合国軍総司令部(GHQ)に接収され、31年に返還されるまで米軍の高級将校の宿舎やクラブとなった。
今後、新館は解体されるが、歴史的価値の高い旧館は曳家(ひきや)工事で保存され、5年を予定している再開発期間後も活用される計画だ。
閉館セレモニーに訪れた杉崎拓也さん(32)は「ここは結婚式を挙げた思い出の場所。再開したら妻とまた、遊びに来ます」と話す。
今年は「昭和100年」。学士会館は、昭和の記憶を残しながら、しばしの休みを経て次の100年に向けて生まれ変わる。(写真報道局 松井英幸)
山の上ホテル、学士会館、、、昭和の雰囲気を楽しめるのはあとわずか
中村智彦
神戸国際大学経済学部教授
2024/2/6(火) 6:50
建築家ヴォーリズが設計、1937年に建設された。(画像・筆者撮影)
インバウンド観光客の誘致など、観光振興が国の重要課題とされる中で、東京都内にも次々と外資系をはじめとした高級ホテルが開業している。しかし、世界の多くの都市には、それぞれの都市を象徴する個性ある小ホテルが人気を呼んでいる。
そんな中で、東京都内から、二つの個性的なホテルが消えようとしている。建て替えされ、新たなホテルとして再スタートする可能性があるにしても、これまでのような雰囲気は引き継げないかも知れない。観光振興の面からも少し残念な気もする。
・山の上ホテルは2024年2月12日が最終日
JR御茶ノ水駅から、神保町に向かって坂を下る途中、明治大学のキャンパスの間にある小さな坂道を少し上がったところに山の上ホテルはある。
作家や作家志望者などはもちろん、多くの人を惹き付けたそのホテルが、2月13日から休館する。休館後の予定は発表されていない。
休館が発表されて以降、名残を惜しむ多くの人たちがホテルを訪れている。宿泊は、2月11日のチェックイン、12日のチェックアウトが最終となる。三島由紀夫をはじめ多くの作家や編集者が通ったというバーノンノンは11日夜まで。その他のレストランなどは12日夜までの営業となっている。すでにいずれも予約はいっぱいで、見学やホテルのオリジナルグッズを買い求める人たちが、たくさん訪れている。
35室の客室は全て間取りやレイアウトが異なっている。駿河台からの眺めは、まさに山の上を感じさせた。(画像・筆者撮影)
・2019年に改修を終えたばかり
丘の上に立つ個性的なアール・デコ様式の建物は、1937年の建設当時はホテルではなかった。福岡県出身の実業家である佐藤慶太郎氏が、衣食住、家庭経済、風俗習慣などの生活改善研究の拠点として開設した「佐藤振興生活館」の本部ビルとして、アメリカ人建築家、ウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計したものだ。第二次世界大戦後は、戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収され、「HILLTOP HOUSE」と呼ばれるようになり、接収が解除された後に1954年からホテルとして開業した。
年月の経過で次第に本来の意匠が薄れていたこともあり、2019年に竣工時の図面を元に改修が行われた。それだけに、今回の休館の発表は多くの人たちに驚きを持って受け止められた。
美しく修復されたアールデコ調の階段のデザインも魅力の一つだ。(画像・筆者撮影)
・「カンヅメ」憧れた人々
その後、わずか35室のこのホテルは、多くの出版社、書店、古書店、大学などが多くある地域にあったことから、文化人の利用が多く、出版社が作家に原稿を書かせるために「カンヅメ」(缶詰とも、館詰とも)にするホテルとしても有名となった。多くの作家が、いつかこのホテルで「カンヅメ」なることを憧れてきた。
ホテルのある御茶ノ水界隈には大学も多くあり、このホテルに憧れと思い出を持つ人は多い。1月末の平日も、館内を見学する人たちも多く、バーノンノンは開店時間の前から多くの人が列を作っていた。
休館後については、発表されていないため、どうなるのかは判らないが、建て替えとなれば数年から5年程度はかかるだろう。
右の4階建てが1928年築の旧館、左が後方が1937年に増築された新館。(画像・筆者撮影)
・学士会館は、2024年12月で休館。新館は解体へ。
山の上ホテルから、歩いて10分ほどのところにあるのが、学士会館だ。学士会とは、1886年に設立された旧帝国大学系大学の出身者等を主な会員とする組織であり、その親睦の場として1928年に建てられたのが学士会館だ。関東大震災後に建築された震災復興建築の一つとして知られ、国の登録有形文化財に指定されている。
学士会館は、開館から100年近くが経過し、老朽化が目立ち、耐震補強の問題が深刻になっていた。また、白山通りの拡幅が計画されていることもあり、学士会単独事業ではなく、隣地所有者との共同事業での再開発が行うこととなった。
こちらも最終的な計画は発表されていないが、1928年築の旧館は曳家技術を利用し、保存されることになっているが、1937年築の新館は解体されることが発表されている。
2029年8月には、道路の拡幅による7メートルのセットバックと、周辺との一体開発になり、旧館は残されるものの景観は大きく変わるだろう。
宿泊者用談話室。クラシックな館内は、映画やドラマなどでも利用されてきた。客室も今のホテルにはない雰囲気。(撮影・筆者撮影)
・昭和初期の雰囲気を体験することができるのは、あと少し。
ホテル、結婚式場、レストラン、美容室を備え、昭和初期の雰囲気を色濃く残す館内は、ドラマや映画などのロケにも使われてきた。近年では、2013年のドラマ『半沢直樹』の最終回で大和田常務が半沢直樹に土下座する場面で登場し、話題となった。
学士会館は、2024年12月で休館し、2025年1月から工事が始まり、2029年8月に再開発事業の完成が予定されている。工事期間中は全面休館となる。レストランの一つである「ラタン」は、すでに閉店しており、中華料理と和食、コーヒーショップの三店は2024年12月まで営業の予定だ。昭和初期の雰囲気を体験することができるのは、あと少しの間だ。
学士会館の談話室。ゆったりとした時間が流れている。(画像・筆者撮影)
・都市観光の魅力の一つでは
日本を訪れる富裕層の観光客と話をすると、「有名高級ホテルチェーンは、どこで泊まっても大差がない。特徴ある小規模なホテルに宿泊したい」と言われることが多い。日本の場合、その条件に合うのが高級日本旅館であることは確かだが、都市部に歴史的な建物を利用した小規模なホテルが、都市観光の魅力となることも確かだ。
耐震補強工事や都市の再開発事業などの理由から、山の上ホテルや学士会館のような古い施設が失われていくのは、経営的な問題もあり致し方のないことだろう。しかし、山の上ホテルも学士会館も、今後については詳細がまだ発表されていないが、都市観光の魅力の一つとして、営業が再開された時には、せめてこれまでの雰囲気やサービスをできるだけ引き継いで欲しいものだ。
【泊まれる文化財】年内で営業終了する「学士会館」に泊まってきた / 1928年開業当時の華やかさが残る超ノスタルジックな空間 / そして衝撃のラスト…
砂子間正貫2024年3月24日
東京都千代田区の「学士会館」といえば、東京大学の発祥地であり、日本野球の発祥地であり、旧七帝大(北大・東北大・東大・名大・京大・阪大・九大)の卒業者のみが入会を許される学士会の本拠地だ。
現在はレストランやホテルなどとして一般利用されていて、2020年には佐藤記者が人気ドラマの撮影場所となった201号室でステーキ丼を食べている。そんな学士会館が年内いっぱいで営業を終了するそうだ。
そこで今回は、1928年の開業当時の原型を今なお保つ “泊まれる有形文化財” こと学士会館に宿泊することに。閉館前に超ノスタルジックな雰囲気を味わい尽くしてきたので報告したい。
・学士会館
都営三田線・新宿線・東京メトロ半蔵門線「神保町駅」のA9出口から徒歩約1分の場所にある学士会館。夜は建物全体がライトアップされ、どこかミステリアスなオーラが漂っている。
南玄関の半円大アーチなんかとくに強烈。もはやダンジョンの入口にしか見えない。ちなみに玄関前には「東京大学発祥の地」の石碑が建っている。
ついでに紹介しておくと、北玄関のスグ近くに建っているのが「日本野球発祥の地」のモニュメントだ。1872年(明治5年)にアメリカ人教師が生徒たちにベースボールを教えたのが始まりらしい。
・2024年12月で休館
さて、関東大震災の復興中に建ちあがった学士会館は、震災の教訓を活かして当時では珍しい耐震・耐火の鉄骨鉄筋コンクリート造りを採用。戦後はGHQに接収され、米軍の高級将校の宿舎として使用されるなど激動の時代を駆け抜けてきた。
開館から100年近く経って老朽化が目立ち、耐震補強の問題が深刻になっていたこと、また道路(白山通り)の拡張計画もあって、隣地所有者と共同で再開発が行われるようだ。昭和初期の雰囲気を体験できるのもあと少しである。
・宿泊
チェックインは21時まで。この日は仕事を終えてギリギリに到着した。優雅な赤絨毯を駆け上がってフロントへ。今回はシングルルーム1泊素泊まりで1万1000円である。
最近は宿泊費が高騰していてビジホでも1泊2万円くらいするもの。駅近の歴史的な建物に宿泊できて1泊1万1000円はかなり良心的だと言える。もちろん予約は困難。実を言うと、私も数カ月前から狙っていてやっと予約できた感じだ。
エレベーターも良い……けど、せっかくだから階段で上り下りしよう。ってか、見学だけでも楽しいのに宿泊できるのはヤバい。
一般社団法人 学士会
学士会館について
学士会館の沿革
1877(明治10)年4月に創設した東京大学は、1886(明治19)年3月、「帝国大学」と改組改称いたしました。それまでの9年間、東京大学総理であった加藤弘之先生が退任されたのを機に、先生に対する謝恩会が開かれました。
これが「学士会」のはじまりです。のちに、旧帝国大学(現在の国立七大学[※])出身者の親睦と知識交流を目的とした場に発展して行きました。
※国立七大学とは北海道大学、東北大学、東京大学、名古屋大学、京都大学、大阪大学、九州大学のこと。
学士会は、1913(大正2)年1月に初めて会館と呼べる西洋風の木造2階建ての施設を創建しましたが、同年2月、神田三崎町で起きた大火により焼失。この復興に向けて準備を進め、1923(大正12)年9月1日、基礎工事を開始する予定でしたが、奇しくもその日、関東大震災に襲われて計画は延期。その上、それまで利用していた仮会館も焼失しました。焼失と再建を繰り返し、ついに1928(昭和3)年、現在の学士会館が建設されました。
長い歴史のなかで、様々な出来事もありました。1936(昭和11)年の2・26事件の際には、第14師団東京警備隊司令部が置かれ、1941(昭和16)年に太平洋戦争が勃発すると、翌年以降、会館屋上に高射機関銃陣地が設けられました。1945(昭和20)年には、会館の一部が空襲の被害を受ける一方、館内のいくつかの部屋を日本軍に提供することになりました。そして終戦後の同年9月、連合国軍総司令部(GHQ)に接収されて閉館。高級将校の宿舎や将校倶楽部として使用されていましたが、1956(昭和31)年7月に返還されました。
宿泊、レストラン、会議室、結婚式場などを完備する学士会館は、学士会会員のための倶楽部施設ですが、現在では一部施設を除いて一般利用が可能となり、会員以外の多くの方々にご愛用いただいております。
落成した学士会館の全景(昭和3年5月 撮影)
会館・正面玄関(昭和3年5月 撮影)
学士会館の建築
学士会館は、関東大震災後に建築された震災復興建築となります。外壁が昭和初期に流行したスクラッチタイルで覆われた4階建ての旧館は1926(大正15)年6月に着工、1928(昭和3)年5月20日に開業いたしました。総工費は約106万円。関東大震災の教訓をいかした、当時では極めて珍しい耐震・耐火の鉄骨鉄筋コンクリート造りとなっています。
建築推進の中心となったのは、日本の耐震工学を確立した佐野利器氏。設計者は彼の門下生でもあり、 日本橋高島屋や帝国ホテル新館などを手掛けた高橋貞太郎氏です。旧館を尊重するかのように一歩後退して建つ5階建ての新館は、1937(昭和12)年9月20日に増築開業いたしました。総工費は約60万円。設計者は藤村朗氏です。
学士会館の地盤の基礎には約1300本の松杭が打ち込まれていますが、近年行われた松杭の調査では腐朽は全く見られませんでした。その際、切り出された松杭の一部は、現在会館1階の談話室に展示されています。
斬新、かつモダンで重厚な雰囲気は、85年以上を経た今も大事に継承されており、2003(平成15)年1月、国の有形文化財に登録されました。
右の4階建てが旧館(昭和3年建造)
左後方が新館(昭和12年増築)
戦時中の金属供出で失われた大灯籠(平成15年復元)
東京大学発祥の地
東京大学発祥の地 記念碑
学士会館旧館の正面玄関脇には「東京大学発祥の地」 の石碑が建っています。1877(明治10)年4月12日、 この地にあった東京開成学校と、神田和泉町から本郷元富士町に移転していた東京医学校が合併して、東京大学が創立されました。
創立当初は法学部・理学部・文学部の校舎は当地に設けられていましたが、1885(明治18)年までに東京大学は本郷へ移転しました。
この地を我が国最初の大学すなわち「東京大学発祥の地」とし、1991(平成3)年には記念碑が建立されました。
日本野球発祥の地
日本野球発祥の地 記念碑
学士会館の敷地内に、野球のボールを握った手の記念碑があります。これは日本に初めて野球を伝えたとされるホーレス・ウィルソン氏の野球殿堂入りを記念して、2003(平成15)年に建立された「日本野球発祥の地」のモニュメントです。
ホーレス・ウィルソン氏は教師として、1871 (明治4)年にアメリカから来日し、1872(明治5)年から6年間、この地で授業のかたわら生徒達に野球を教え、これによって日本全国に野球が広まったといわれています。
記念碑はブロンズ製で、高さ2.37メートル。ボールには世界地図が描かれ、アメリカと日本を縫い目によって結ぶことで“野球の国際化”を表現しています。
新島襄先生
生誕の地
新島襄先生 生誕の地 記念碑
同志社大学の創立者として知られる新島襄先生は、1843(天保14)年2月12日(旧暦1月14日)に、学士会館付近の上州(群馬)安中藩江戸屋敷内で生まれました。
この記念碑は生誕100年を記念して、1941(昭和16)年9月27日に建立されました。毎年、生誕日には碑前祭が斎行されています。
学士会分館の歴史
学士会分館
学士会分館全景 1951年(昭和26年)~2010年(平成22年)
1951年(昭和26年)12月3日、東京大学赤門の南側に学士会分館建物(学士会分館)が開館しました。
学士会は1886年(明治19年)4月18日に小石川植物園で催された旧東京大学初代総理であった加藤弘之先生を囲む「加藤弘之先生謝恩会」が発端となって創立された日本で最初の大学同窓団体であり、その後会員資格を旧帝国大学に広げた、世界に類をみない大学の枠を超えた総合同窓会です。
1928年(昭和3年)5月20日には、「東京大学発祥の地」である千代田区神田錦町に会員の寄付により、学士会館が建てられました。この建物はその後国の登録有形文化財にも指定されており、会員の交流・社交の場として利用されています。
地鎮際
学士会山田理事長(当時)と東京大学南原総長(当時)
しかしこの学士会館は終戦直後の1945年(昭和20年)9月から連合国総司令部(GHQ)に接収され、1956年(昭和31年)7月に返還されるまでアメリカ軍高級将校の宿舎や将校倶楽部として使用されていたので、この間会員は立ち入ることさえ許されない状況にありました。そこで学士会はこの本館に代わる施設として、当時の南原繁・東京大学総長のご好意により、赤門の南側に隣接した約540坪(1,782m2)の土地を、東京大学より借り受け、「学士会分館」を建築しました。
この分館は東京大学の本郷キャンパス内にあったこともあり、広く大学関係者の学術交流、親睦の場として多くの大学関係者に愛され利用されましたが、東京大学の本郷地区再開発計画により2009年(平成21年)3月、閉館・撤去されました。
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